一八一二年の米英戦争は、いろいろの意味で、アメリカ史の転換期といわれている。この戦争が終ったとき、ウェスト・ポイント陸軍士官学校の主脳部は、ヨーロッパの陸軍制度調査研究の結果、フランスのエコール・ポリテクニク(高等理工科学校)を模範として、一八一七年から士官学校の改造を断行した。それでこの学校は、当時のアメリカにおける普通の大学などとは全く趣きを異にして、最も数学や理化学を重要視することになり、それは若々しい教授たちによって実現されたのであるが、その一人にフランス人クローゼー(Claude Crozet)があった。 クローゼーはエコール・ポリテクニクの卒業生、ナポレオン部下の砲兵士官として、ワグラムの戦(一八〇九)にも参加した人であったが、一八一六年から、一八二三年まで、ウェスト・ポイントの工学の教師として活躍した。彼が軍事工学――「戦争と築城の科学」――を教授しようとした時、その学修上、先ず予備知識として必要な数学から始めなければならなかった。その中に画法幾何学があったのである。 思えばこの画法幾何学という学問は、その創始者(エコール・ポリテクニク)のモンジュ(Gaspard Monge)によって公表されてから、ようやく二十年を超えたに過ぎない。そんな新しい学問があることを知っていた科学者は、アメリカに何人もいなかったし、勿論それを教わった人もなければ、英語で書かれた本もなかった時代である。教科書もなければ、またこの幾何学は(学問の性質上)口頭だけで教えることも出来なかった。そこでクローゼーは大工と絵具屋に頼み込んで、黒板と白墨を作らせたのである。「私たちが知っている限りでは、黒板の使用はクローゼーに負うものである。彼はそれをフランスのエコール・ポリテクニクで見ていたのであった」とは、当時のウェスト・ポイント出身者の回想である。田無 歯医者 平家を滅ぼすは平家 - heike.lapunk.hu