夜は既に明け放れて山霧全く霽れ、雨足も亦疎らになった。官軍は死屍を踏んで田原坂に進み、更に一隊は、敵塁の背後に出でようとした。薩の哨兵が、本塁に之を報ずると、防守の望み、既になしと覚ったか、塁を棄てて退却した。 始め、官軍は、一部隊をして、田原坂正面に屯せしめて正攻に出づるが如くに見せて、薩軍を欺いたのが成功したのである。既に本塁を我手に入れたのだが、田原口の部隊は、まだ之を知らずに、盛んに坂上を射撃する。喇叭で報じてもわからない。一少尉が塁上に上り、旗を振って叫んだので、漸く知ったと云う。 丁度十時頃になって居たが、全軍直ちに追撃して、植木の営を衝いた。 薩軍は、田原の険を恃んで、植木の営の警備を怠って居たので、輜重を収める暇もない。町に入り込んだ官軍は、民家に放火した。 薩軍は総退却して向坂に入って、尾撃して来た官軍と対峙した。 山鹿方面の薩軍は、田原敗ると聞いて、即日、鳥栖地方に退き、官軍の本営は、七本に移り進んだ。向坂対陣中、薩将、貴島清、中島健彦等が熊本隊を率いて官軍を急撃した事もあるが、大勢は既に決したのである。 百戦無効半歳間 首邱幸得返家山 笑儂向死如仙客 尽日洞中棋響閑 岩崎谷の洞壁に書き終って、筆を投じた隆盛が腹を切るまで、人吉、豊後口、宮崎、延岡、可愛嶽と激烈な転戦はあったが、田原坂の激戦は、西南戦争の最初にして、しかも最後の勝敗を決したものと云ってよいのである。 この戦に於て所謂百姓兵の為すある事があり、徴兵制度の根本が確立したのである。 自分は、昭和五年に鹿児島へ行ったが、西郷隆盛以下薩軍の諸将の墓地が、壮大であるのに引きかえ、西南戦争当時の官軍の戦死者を埋葬した官軍墓地と云うのが、荒寥としていたのは、西南戦争当時の薩摩の人心の情勢が今もなおほのかに残っている気がして、興味を感じた。 北区 家庭教師